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忘れられない日 1985年8月12日

西日本新聞朝刊に掲載されました。

 

人には、楽しかった思い出や記念日、いろいろな形で忘れられない日があると思います。

私にとって、多分一生忘れないと思われる日、それは1985年8月12日です。

 

もう33年の時が過ぎました。今年もその日が来るとテレビで特集が組まれたりニュース番組で取り上げられたりしました。

「日航機墜落事故」です。このことをお話しても、もう知らない方がおられたれりするので時の流れを感じます。

 

その日私は福岡空港で働いていました。お盆の帰省ラッシュでほぼ全便満席で東京から福岡に帰省される

お客様が、東京→伊丹→福岡と乗り継いで搭乗される予定でこの123便に乗っておられました。

「機影が消えた」から始まり、私が勤務していた福岡空港も報道陣が押し寄せ、ごった返しました。

当時入社後2年目だった私は、もちろん大きな飛行機事故遭遇の経験もなく、鳴り響く電話や怒声の中でどのように過ごしたか覚えていませんが、たまたま「赤と紺」のブラウスの制服の「紺色」を着ていたために上司から「搭乗者の関係者(遺族になるかもしれない)方々を報道陣から隔離し別室でお茶を出す係に任命されました。

 

別室に入ったご家族は、皆それぞれ不安を隠しきれずほとんど何もお話しされずにうつむいておられました。その中のお一人が

「テレビをつけてください。」

とおっしゃいました。

 

言われるままにテレビをつけると、搭乗者名簿が次々と映し出されました。

 

ご自分のご家族の名前が出ると、今まで経験したことのない大きな声で「わあーーーー」と泣き出されました。

 

まだ、21歳の私の立場は「加害者側」です。でもどうすることもできません。

かける言葉も思いつきませんし、頭を下げること、土下座すること・・・なにもできませんでした。

 

11時ごろ上司がやっと部屋に来て帰宅することになりました。

 

うちに帰ってもずっとテレビでその報道を見て眠れませんでした。

 

それからしばらくは会社に行くのが怖かったですが、だんだんとそのことを忘れかけていました。

 

平成21年2009年10月12日に父が亡くなりました。その年に続けて100歳だった母方の祖母、高校の時の同級生が癌で亡くなりました。

三人三様それぞれの葬儀の形がありました。

 

私の心に「あの時の思い」がよみがえりました。

ずっと航空会社で接遇をさせていただき「どのようにすればお客様の満足を得、心地よく過ごしていただけるのだろうか?」を考えて仕事をしている毎日・・・・・もしかしたら「あの時できなかった、ご家族の気持ちに寄り添うこと。悲しみを分かち合うこと。変わってあげることはできないけれど、そっとそばにいてあげること」相手は変わるけれど、今なら少しずつお返しすることができるかもしれない。そう思ったのです。

 

その後、会社を退職し葬儀屋さんで勉強を始め今に至ります。

そしてその時の気持ちはずっと変わらず持ち続けています。

 

あの事故は某国の陰謀だとか、わかっていたのに発見を遅らせてとか、この時期になると真相究明の本が出たりテレビの特集が組まれたり・・・・

その度に心が苦しくなるのです。

 

庶民の私には難しいことはわかりませんし、陰謀だろうがなんだろうがあの事故で亡くなった520柱の魂があることになんら変わりはありません。

真相究明は、今後こんな悲惨な事故を再び起こさないために大切かもしれません。

でも、あの時墜落の恐怖を味わって亡くなって行った520人はもう還っては来ないのです。

 

せめて、せめてその御柱に想いを馳せ「どうぞ安らかにお眠りください」と祈ります。

 

もちろん、これだけではありません。

世界中で戦争や、私の住む長崎は「被爆地」です。どれだけの魂が無念の涙を流したでしょうか?

 

世界中の人々が安心して、幸せに暮らせる世の中が来るのを願ってやまないのでした。

 

 

 

合掌DSCF0765

 

 

 

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